Maru


By Jim Santella

Improvising ensembles come in all shapes and sizes. Here’s one that begins with the standard big band instrumentation, adds a powerful rock-inspired twist to each selection, folds folkloric themes from around the world into its book, and then launches a hard-swinging free jazz journey.

While the band’s fabric follows from what Buddy Rich and Woody Herman were doing with their organizations a generation ago, this one bears the imprint of Satoko Fujii’s creativity. Under her leadership, the soloists get free with an expressive collection of adventures. They’re all-stars, too: several of the group’s members show a superb grasp of the deep feeling that’s required to express the passion of her music. Unlike her other musical organizations, this one revels in its partnership with rock music and its impact on the senses.

“Slip-on” features powerful soloing from alto saxophonist Akihiko Yoshimaru and baritone saxophonist Daion Kobayashi. They blend with the orchestra to create a hot mountain of excitement. Kobayashi steps out again on “Pakonya” to deliver another rock-inspired blow. The piece also features trumpeter Takahiro Tsujita in a fit of glory. While their animated soloing remains pure and natural, the band surrounds them with a barrage of fiery asides.

Guitarist Yasuhiro Usui steps forward on the title track, “Maru,” to deliver a blow equivalent to those of Rocky Balboa in his glorious years on the big screen. It’s a piece fit for celebration. Remember when organizations led by Maynard Ferguson and Don Ellis brought rock themes to the big band jazz arena? Fujii revives that concept here successfully with fireworks from an exceptional body of talented artists.

(By Jim Santella)

JAZZ TOKYO 及川公正ここが聴きどころチェック23

適度な音場感を持たせ、ドラムス等に奥行き感を持たせた録音。空間を生かした定位の設定も好感が持てる。バランスの組み立ても自然さがあり、各楽器 の質感も程良く計算され、空間の情報を適度に取り込んでいて、スタジオ録音とは違った味わいを聞かせている。エレクトリックも過度なエフェクトに頼らず自 然さがあって、音場を崩していない。小物によるエフェクトの扱いもバランスとして大げさでなく自然だ。オーケストラの炸裂する音量にも、録音空間の余裕が 音に圧迫感を感じさせない仕掛けとして働いており、聞いていて気持ちが良い。
ミックスにあまり手を加えず、その場のバランスを重視してマイキングにもかぶりを意識しないで臨場感で捉えた録音手法が「神戸」との好対照となり、2枚の聞き比べに(録音として)面白さを加えている。

北里義之

6月21日新譜で,複数のレーベルが歩調をあわせ,藤井郷子オーケストラの新作を4タイトル同時にリリースするという快挙をなしとげた。なかの一枚 では,DVDとCDとのカップリングという初の試みがなされている。周知のごとく,ビッグバンド・オーケストラというジャズの伝統的なスタイルを,「作曲 家の楽器」として使うのではなく,オリジナルな作品を予想もつかない形で異化する即興集団としてとらえている藤井郷子は,ニューヨーク組,東京組,名古屋 組,そして今回新たに参戦した神戸組と,それぞれメンバー構成の異なるオーケストラを各地で主宰している。新作の各タイトルは,ニューヨーク組の 『Undulation(波動)』(05年9月7日録音/解説:土佐有明/P.J.L./MTCJ-3032),東京組の『Live!!』(05年6月 21日録音/Libra/LIBRA 215-015, 215-016/CD+DVD),名古屋組の『Maru』(06年3月7日録音/Bakamo/BKM-005),神戸組の『Kobe Yee !!』(06年3月1日録音/Crab Apple/CRAB APPLE RECORDS-002)である。
ジャズのビッグバンドが,人気プレイヤーや人気歌手,名アレンジャーなどを擁するひとつの株式会社みたいなものだったとすれば,藤井郷子オーケストラは, 場所によってメンバー構成が変わるという意味で,意識しているか否かを問わず,ブッチ・モリスのコンダクションを連想させるアソシエーションの組織論を とっていると言えるだろう。ブッチ・モリスが世界の各地で公演してきた100回を超えるコンダクションは,一回ごとにメンバー構成や楽器構成がまったく異 なり,ジャズや即興演奏はもちろんのこと,ロック,クラシック,即興ヴォイス,民族音楽,ノイズ音楽など,どんな音楽ジャンルに属する演奏家でも参加でき るような方法が,モリスによって編み出されたことに大きな特徴がある。この点,藤井郷子オーケストラは,現在のところ,参加メンバーをジャズの枠内にほぼ 限定しているため,ジャズという特定のジャンルの内部に,アソシエーションの組織論を持ち込んだ格好になっている。
ジャズのアソシエーションといえば,AACM や ICP など,60年代に異議申し立ての歴史を持つ即興演奏では,すでにお馴染みの組織形態として知られる。その都度「部隊」と称する脱ジャンル的なメンバー構成 を取る巻上公一(vo)主宰の “ジョン・ゾーンズ・コブラ” とか,流動的な集団即興のあり方を Exias-J というアソシエーションの理念でとらえようとした近藤秀秋(g)とか,60年代のアソシエーションの記憶は,様々に形を変えて,現代の音楽シーンにも引き 継がれている。パースペクティヴを広く取るなら,日本ジャズ史にこれまで存在しなかった藤井郷子オーケストラのあり方は,単に派手に出来事を演出したいと いうような動機からではなく,こうした今日的アソシエーションの実践のひとつであり,ジャズにおいても,様々な場所で様々な演奏家がバラバラに活動してい る現状に,ひとつの見晴らし台のようなものを提供する働きをすると思う。60年代後半,フリージャズによる新たなサウンドの解放が訪れたとき,自由の絶対 的な肯定とともに,演奏家たちのアソシエーションによって,「我々」と呼べるようなひとつの意識を生成しようとしたカーラ・ブレイ(comp)やマイク・ マントラー(tp)の “ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ” が果たしたような役割を,藤井郷子オーケストラも担っていると考えていいだろう。
藤井郷子オーケストラは,こうした過去の記憶を現代に再生させるだけではなく,さらに組織を横断的に結ぶような役割も果たしている。この意味では,そうと はっきり明言されていないが,オーケストラにおける藤井郷子や田村夏樹の作品は,初めから “横断的コンポジション” として書かれていると言うべきだろう。もちろん,これは様々な音楽スタイルを横断する折衷的音楽を意味するのではなく,様々な演奏家を横断する橋としての コンポジションという意味であるが。シュリッペンバッハ(p)率いるグローブ・ユニティー・オーケストラとバリー・ガイ(b)率いるロンドン・ジャズ・コ ンポーザーズ・オーケストラの共演や,ノーベルト・シュタイン(sax)率いるパタ・オーケストラとリヨンの ARFI の共演など,こうした越境するアソシエーションが実践され始めたのは,ごく最近の出来事に属する。オーケストラの運営に膨大な経費がかかることが,こうし た機会を少なくしている大きな要因であることは,誰にでも容易に想像がつくだろう。ともあれ藤井郷子は,そうしたさらなる共同性の獲得を視野に収めるよう な位置に立ちながら,複数のオーケストラの運営を進めているに違いない。
60年代後半から70年代にかけて展開したジャズ・コンポーザーズ・オーケストラにおけるアソシエーションのあり方と,現代の藤井郷子オーケストラにおけ るそれとの相違点についても触れておくべきだろう。時代背景なども考慮に入れて,重要なものについてだけ拾いあげてみると,(1)当時のジャズ状況, (2)作品性の重視,(3)社会的メッセージ性,という3点があげられると思う。

(1)ジャズを取り巻く周辺状況。フリージャズ期に私たちが体験することになったのは,単に既成の音楽形式を破壊するほどのエネルギーの爆発という にとどまらず,個々の即興演奏のレヴェルでも,次々と新たな語法や,ソロ演奏のスタイルが登場した時期でもあった。集団即興とソロ演奏の盛行,換言すれ ば,楽器演奏における新たな語法の解放と集団的表現における関係性の再構築,このふたつの事柄は,いわば表裏一体に出現したものである。フリージャズを応 答すべき音楽としてまともに受け止めたミュージシャンの資質に従って,力点が置かれる場所は千差万別のものとなり,例えば,今日ポストモダンと呼ばれるよ うな多形式の音楽スタイルに結実したり(クリエーティヴ・ミュージック・オーケストラを結成したアンソニー・ブラクストンなど),個の表現/表出に立脚し てすべての関係性を根底的に組み替えたり(カンパニーの関係性を切り捨てることのないデレク・ベイリーなど),単独者としてすべての組織的なるものから永 遠の離脱をはかったり(アポリアとしての阿部薫など),アモフルな演奏を徹底することが最大の自由と考えたり(特定の演奏スタイルを持たないことがスタイ ルになっていったペーター・ブレッツマンなど)と,世界中に多彩な試みを生んでいった。これらのすべてが,内破するジャズから生まれてきたといっても,過 言ではないだろう。そんななかで,演奏者のエゴの絶対的な肯定が,音楽のために必要なあるべき関係性までも破壊してしまうリスクを回避するひとつの方法 が,即興しない作曲家としてシーンに関わったカーラ・ブレイにあっては,ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラというアソシエーションの試みだったと思わ れる。
現代はジャズが内破するような時代ではない。こう言ってはなんだが,フリージャズによる混沌とした状況にあって正気を保つ方法として選択されたブレイたち のアソシエーションが抱えていた危機感は,藤井郷子オーケストラにはない。藤井の場合,オーケストラはそれ自身が各地に分校を持つひとつのジャズ大学のよ うに思える。すべてが日常性のうえに立ち,かつジャズの内側にあるとはそういうことだ。教育装置としてのアソシエーション。もちろん,だからといって,彼 らの演奏が学生の発表会のようなものだと言っているわけではない。問題にしているのは,アソシエーションの質の相違なのである。

(2)作品性の重視。雅楽や梵鐘のノイジーさを連想させる複雑なハーモニーや息の長いメロディー・ラインなど,アブストラクトな表現のために,オー ケストラによる演奏がとても難しいものとなっているだろう藤井郷子の作曲に,作品性が希薄なわけではない。楽曲を綿密に書き込むことに関して,藤井に妥協 はないだろう。作品を異化する個々の即興演奏のユニークさ以上に,この抽象的なサウンドが具体的な音塊として,また同時に音魂(おとだま)として実現して いるオーケストラは,「金(メタル)」「水」「木」「月」「太陽」「波動」「火」「地球(土)」など,五行を思わせるタイトルの楽曲群を演奏するニュー ヨーク組がダントツである。特徴的なのは,複数のオーケストラが持つアソシエーション性と楽曲が持つ作品性が,藤井郷子オーケストラの場合,直接に結びつ いているわけではなく,楽曲に挟み込まれるジャズの伝統的なソロ・オーダーによって,水と油のように(?)接合されているという点である。水と油の混ざり 具合は,演奏者の即興によって様々に変化する。換言すれば,必ず混ざるという保証はどこにもない。しかし,そうした方法を取ることで藤井は,教育装置とし てのアソシエーションという一種の音楽民主主義と,複雑なハーモニーが要求する専制主義の間に立って,うまくバランスを保っているように思える。
カーラ・ブレイの場合,数年をかけて作曲/録音されていったブリコラージュの作品「エスカレーター・オーバー・ザ・ヒル」(1968年-71年録音)に顕 著なように,作品そのものの作曲=製作過程が,「われわれ」と呼べるような意識を生成し,かつこの意識を共有するためのアソシエーションの舞台になるとい う,藤井とは別の内容を持った作品性の重視がある。フリージャズによってもたらされた転形期が過ぎ去った後も,ジャック・ブルース(vo)が参加するマイ クロ・オペラを書いたり,シチリア島のジャズマンと共演するような際に,このときの経験が生かされているだろう。作曲によってフリージャズと関わるとい う,余人には得難い経験が育んだ他者感覚は,作曲家の倫理観にまで影響を及ぼしたのである。

(3)社会的メッセージ性。「エスカレーター」がポール・ハインズのテクストに依拠したオペラだったように,またブレイらが別働隊として結成してい たチャーリー・ヘイデン(b)のリベレーション・ミュージック・オーケストラが,明確な異議申し立ての音楽をやっていたように,アフリカン・アメリカンの 権利獲得をめざす公民権運動を,社会的・思想的な背景にしていたフリージャズ期の音楽の変革は,言葉と切り離すことができないものだった。言葉も,作曲 も,即興によって新たなラインや音楽を創造する「インスタント・コンポジション」も,さらにはソロ演奏によって「私」を別様に語ることも,ジャンル意識に よって区切られることのない,ひとつらなりの書かれつつあるエクリチュールとして意識されていたと言えるだろうか。演奏すること,作曲すること,言葉を書 き記すことが,ごく自然に越境されていった当時の経験を,左翼運動だとか,ジャズ史に一元化して平面的に理解してしまっては,私たちは60年代フリージャ ズの出来事性を,ものの見事に取り逃がすことになるだろう。
藤井郷子は,シンガー・ソングライターの “航(こう)” と活動するなど,歌手との共同作業にも意欲的で,みずからの作曲と言葉との関わりを決して等閑視しているわけではない。しかしオーケストラの領域に限って みると,言葉が問題にされることはなく,エクリチュールの越境行為は皆無と言っていいだろう。作曲/即興の間にも分断線が走っている。藤井の作曲は,ここ では古風な純音楽的態度に制限されているのである。おそらくこのことが,各地域の藤井郷子オーケストラを,ひとつのジャズ・スクールの分校のように見せて いるのだろう。

DISC UNION

国内よりもむしろ欧米で高い評価を得ているピアニスト/コンポーザー、藤井郷子。彼女が、録音場所もメンバーも異なる4タイトルのオーケストラを同 日にリリースするという、前代未聞の快挙に打って出ました。フレキシブルで緩やかな組織形態は、AACMやICPの日本版といったところでしょうか。名古 屋のライヴハウス・TOKUZOでライヴ録音された本作は、不穏で妖しい空気が際立つ全6曲。最大のポイントは、エリオット・シャープやペーター・ブロッ ツマンとの共演で知られる異能のギタリスト、臼井康浩の参加でしょう。オープニングを飾る「Slip-on」を作曲し、随所で乾いた音色のギターを響かせ る彼の存在感が、本作のカラーを決定付けています。(担当:土佐)

その他レビュー

–賞賛すべき―ヴィレッジボイスジャズ消費者ガイド―トム・ハル

–マイベスト5CD、CDジャーナル悠雅彦

「アレンジは緻密で、ホーン類のまとめ方は非常に効果的なので、期待通りの音量とスピード感が得られる。」
–トム・ハル、トム・ハル オン ザ ウエブ

「藤井郷子は、目を見張るような日本人のピアニスト兼作曲家で(中略)、忙しく活動を続けてきた。4枚のビッグ・バンド作品の中で私がいちばん好き なのは、名古屋のバンドによる『Maru』である・・・。この女性はビッグ・バンドのために、分厚い衝撃音に満ちた譜面を書いている・・・。作品の中には アヴァンギャルドな方向性を持つものもあるが、これにはロックのエネルギーがこめられている。」
–ニール・テッサー、リッスンヒアラジオ

「インプロヴィゼイションのためのアンサンブルは、編成も規模も様々だが、このバンドの演奏は標準的なビッグ・バンドの楽器構成で始まり、曲ごとに ロックの影響によるひねりが加えられ、世界中の民俗音楽の要素が織り交ぜられ、ついには強力なスウィング感を持ったフリー・ジャズに発展する・・・。ギタ リストの臼井康浩は、タイトル曲「Maru」でステージの前面に進み出て、銀幕のスターとして全盛期にあったロッキー・バルボアのパンチにも似たソロを聴 かせている。この曲は勝利の祝賀会にふさわしい。メイナード・ファーガスンやドン・エリスが率いるグループが、ビッグ・バンド・ジャズの世界にロックの テーマを持ち込んだ頃のことを覚えているだろうか? 藤井はここで、才能豊かなアーティストたちの類い稀な集団が散らす火花によって、あのコンセプトを上 手く再現してみせている。」
–ジム・サンテッラ、オールアバウトジャズ(アメリカ)

「2006年最高のアルバムのひとつだ・・・。ギタリスト臼井康浩の希望で、藤井が名古屋でこのバンドを組織したのは1999年のことで、その音楽 にも彼の影響が見られる・・・。しかし、それよりもまず、音楽そのものがロックを包含している。日本の伝統的なメロディーを借用したタイトル曲の演奏を聴 くと、バンドの面々がまるでゴジラのようにあたりを徘徊しているかのように思われる。藤井がこのオーケストラで指揮者の役割に徹し、ピアノが臼井のギター に置き換えられているのは決して偶然ではない。ちなみに、厚ぼったい、陰鬱な響きのアンサンブルは(実際の演奏もそうだが)、先鋭的だが薄暗い感じのする 名古屋の音楽シーンを反映している(東京の音楽シーンとの関係は、シカゴとニューヨークのそれを思わせる)。これらの要素が相まって、このオーケストラに とっては2枚目の作品となる『Maru』は、前作よりも活き活きとした、より親しみやすいものとなっている。」
–ニール・テッサー、リッスンヒアラジオ(アメリカ)